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2005年6月30日(木)
郵趣7月号

 期末考査3日目。午後から採点。第1日目の分を終えて帰宅したのが,19時頃。明日は県のメディア研究会の理事会・総会のため長崎に出張。

 「郵趣」7月号到着。巻頭カラーのチェコの凹版切手の美しさには見入ってしまった。第23回全国会員大会in博多の案内記事で詳細を知る。日曜は体育大会で勤務日になるため参加できないが,土曜日は「かもめ」の最終までつきあえるはずである。九州で2度目の会員大会。前回の1988年の北九州大会では,私も「第1次昭和切手」の作品を展示して水原氏の知己を得,翌年コミッショナーをされたときのフランス展に出品した記憶がある。

2005年6月29日(水)
定常変種

 期末考査2日目。午後から会議。終了したのが18時過ぎ。古典の作問。22時30分帰宅。

 「紙版の情報誌」到着。小判切手の定常変種はその気になって見ないとみつからない。愛着ゆえのなせるわざであろう。

2005年6月28日(火)
スタンプコレクター

 期末考査第1日目。午後から会議。その後少し採点して帰る。19時前帰宅。久しぶりにテニスクラブへ。20時に行ったら,代表ともう1人の2人しかいなくて私が3人目。1対2で乱打をしていると,ぞくぞく来始め,1対1で30分ほど続ける。最終的に20名以上が参加したようだ。3コートの端の1コートで基礎練習のグループ。21時過ぎに小雨。途中雨宿りをしながら22時まで。全天候型コートは雨後すぐできるのがいい。しっかり汗をかき,おかげでうまいビールを飲むことができた。

 「スタンプコレクター」着。表紙は吉田一郎差出しの制定シート全貼の外信便。長野氏の記事中の前島の漢詩の読みに誤植があったのは残念。

2005年6月27日(月)
静かな落日

 期末考査の前日。放課後,生徒の指導を18時に終え,島原文化会館へ。市民劇場の例会日である。

2005年劇団民藝各地公演
静かな落日  -広津家三代-
戦後日本の黒い霧 松川事件に挑んだ広津和郎
明治・大正・昭和にわたる作家三代の姿を鮮烈に描く 
下山事件、三鷹事件と国鉄にかかわる怪事件がつづく1949年。8月17日午前3時ごろ、福島県の松川付近で列車が転覆、多くの死傷者を出した松川事件。事件発生から政府は、国鉄労組員ら数人を容疑者として検挙、第一審で死刑4人をふくむ重い判決が言いわたされた。この裁判の不当さ、非人間性をかぎとった広津和郎は、友人の作家宇野浩二とともに、のこる人生をかけて娘桃子と裁判記録にとりくみ、ペンを武器にたたかいつづけた。63年、ついに最高裁の最終無罪判決が出る。この作品には先輩の志賀直哉も登場、広津和郎が父柳浪からうけついだ反骨精神、娘桃子に託した作家魂がほんとうの人間的なやさしさとともに鮮烈に浮かびあがる。
作 吉永仁郎、演出 高橋清祐。
広津和郎(作家)………………………伊藤孝雄
広津桃子(和郎の娘)…………………樫山文枝
広津柳浪(作家・和郎の父)…………安田正利
広津桃子(女学生時代)………………加藤絹子・川岸紀恵
宇野浩二(作家・和郎の友人)………嶺田則夫
志賀直哉(作家・和郎の友人)………水谷貞雄
■広津和郎
小説家、評論家。硯友社の作家広津柳浪(りゆうろう)の次男として東京市牛込区に生まれる。早稲田大学英文科卒業。正宗白鳥やチェーホフ、アルツィバーシェフなどの影響を受け、創作や翻訳を始め、1912年舟木重雄、損西善蔵らと同人雑誌《奇蹟》を創刊。17年、同時代の青年像を〈性格破産者〉として描いた《神経病時代》で新進作家として認められる。また、《怒れるトルストイ》 《志賀直哉論》などを収めた評論集《作者の感想》(1920)を刊行、評論家としての評価も高まる。昭和期になると文学者をとりまく時代の動向に関心を強め、小説《昭和初年のインテリ作家》 《心臓の問題》などを発表。昭和10年代には独自の〈散文精神〉を説き、《忌の歴史》(1940)に庶民生活を描いた。戦後には松川事件と取り組んだ《松川裁判》(1958)や回想をつづった長編《年月のあしおと》(1963)などがある。大正・昭和にわたる文学活動の基調には、自由主義的なヒューマニズムと散文精神が一貫している。 
■松川事件 
1949年8月17日、東北本線の松川-金谷川間で列車が転覆し、機関士など3人が死亡した事件・およびこの事件をめぐる長期の裁判。この時期にはドッジ・ラインによる行政整理の強行、労使の対立の激化の中で、この年7月5日の下山事件、7月15日の三鷹事件と、国鉄をめぐる不穏な事件がつづいていた。事件の翌日の8月18日吉田茂内閣の増田甲子七官房長官は記者会見で、これは〈集団組織による計画的妨害行為〉であり、〈三鷹事件をはじめ各種事件は思想的底流において同じものである〉と捜査以前に事件を共産党の破壊工作だと示唆する政治的発言を行った。警察はこの事故は首切りに反対する計画的犯行だとして、国鉄労組福島支部や付近の東芝松川工場労組の共産党員らを逮捕し、検察はこの捜査にもとづいて20名の被告を汽車転覆致死罪で起訴した。翌50年12月6日第一審の福島地裁は、検察の主張を全面的に認め、死刑5名を含む全員有罪の判決を下し、さらに53年12月22日、第二審の仙台高裁も死刑4名を含む17名有罪、3名無罪の判決を下した。しかし59年8月10日最高裁は重大な事実誤認の疑いがあるとして、有罪部分を破棄し仙台高裁に差し戻した。仙台高裁は審理をくりかえし、61年8月8日全員無罪の判決を下し、さらに最高裁は63年9月12日、検察側の上告棄却の判決を下して、14年ぶりに全員無罪が確定した。事件が共産党弾圧のための政治的なでっちあげである疑いは初めからあり、作家の広津和郎ら文化人が真実究明に努力し、労働組合をはじめとする松川事件対策協議会の被告への支援運動が広範に展開されたことも無罪確定への力になった。戦後日本における最大の冤罪事件である。なお、この事故原因は人為的工作によることは確かで、CIA の陰謀説なども存在しているが真相は未だ不明である。 

以上HPから。

 22時頃帰宅。「郵趣ウィークリー」「新消印とエンタイヤ」着。佐賀のM氏よりエンタイア数通到着。島原関係もあった。

2005年6月26日(日)
miniDVD

 完全休養日である。ただし期末考査前なので在宅ワーク。他の作業でたいへんだったのは,放送部の生徒に配るminiDVDを15枚作成したこと。J12でレーベル印刷,RZ71でコピー作業と分業だが手間がかかった。

 ここ十日ほどの間に届いたマテリアルを整理する。アルバムを作り替えたいが,それには机上の整理をしなければならないのがつらいところ。

2005年6月25日(土)
第2校

 土曜講座。1校時のあと3年生は進路講演会だが,私は1年生の手伝いのクラスの授業。講演会終了した頃,講演会会場の文化会館前の横断歩道の交通整理に出かける。午後も3年生の授業。講演会のため時間が後ろへずれ込み,夕方から考査に関しての打ち合わせ。21時過ぎ帰宅。明日は久しぶりに自宅でゆっくり過ごす1日。

 有明町の歴史を語る会の会誌に島原新聞連載の「郵便・切手に見る雲仙史」を転載したい旨の申し出があった分の校正第2校が到着。うまくページ割がしてある。

2005年6月24日(金)
移動日

 9時の予約なので,8時過ぎに産業医大へ。以前の検査の結果発表である。10時前に北九州を出発,移動。14時には長崎北高校に到着できた。県の国語部会の地区主任会である。北高は支部長校で私は事務局長としての参加である。15時開始なので,事前に打ち合わせ。時間通り開始,審議事項等もスムーズに進み,16時過ぎには終了。主任として来ていた知人の車で麓の電停まで乗せてもらう。久しぶりに浜の町に路面電車に乗り,出かける。一番驚いたのが,コンピュータウンが店じまいしたこと。ヤマダデンキの出店が響いたのだろうか。アーケード街を歩き,好文堂書店で本を購入。その後知人と会い,老舗の喫茶店「富士男」でコーヒーを久しぶりに飲む。19時閉店に驚く。で,思案橋の「雑魚屋」で軽く食事をする。21時過ぎの長崎発で帰り,帰宅23時前。

 ゆっくり切手を眺める時間がほしい。
 78000アクセス。

2005年6月23日(木)
180冊

 早朝補習。放課後職員会議。急いで帰り支度をし帰宅したのが18時前。これから北九州へ向かうのだ。18時36分の諫早行きに島鉄湯江駅から乗る。
 ちょうど日没前の夕焼け空。島鉄の車窓から諫早方面あるいは森山だろうか,没する赤い太陽を見た。一人旅は心を切なくする。
 諫早で博多までの4枚切符を購入。かもめで博多へ。21時過ぎに博多着。友人Y君と旧交を温めるべく中州丸源36ビル2階の「ル・ル・ル」へ。昨年10月16日以来である。
 23時19分発門司港行き,すごい混雑。携帯電話で時刻表を検索して23時40分発の特急「きらめき6号」が数分の違いで折尾着というのがわかり,引き返しみどりの窓口で特急券を購入。こちらにして正解,ゆったり座っていけた。24時20分折尾着。妹宅へはその数分後到着。

 「切手研究」着。車中で読みながら行く。荻原氏の南洋本に対する片山氏の書評,最大級の讃辞である。私も一般発売180冊の幸運な読者の一人になれたのを喜ぶ。77777アクセス。

2005年6月22日(水)
正会員大会

 早朝補習。期末考査前で忙しい。放送部も昼休みに部員と会う。放課後は20分程度の発声練習のみ。19時30分帰宅。

 JPS正会員報到着。正会員大会の案内。パーティが22時まで。早速当日の時刻表を調べてみると,諫早行きのかもめ最終便が22時8分。少し前に会場を出れば参加できることがわかった。翌日は体育祭なので休めないのである。

2005年6月21日(火)
メール

 放課後,期末考査の時間割発表。クラスによっては考査まで授業があと1時間ぐらいしかない。放送部も2年生が主流。7校時生徒会常任委員長(生徒会長)立ち会い演説会と投票があり,生徒会も2年生が運営の中心になっていく時期。19時30分帰宅。

 SEVEN入札忘れる。シバタはメールをもらったので,明日忘れないようにしよう。

2005年6月20日(月)
チェスラフ・スラニア

 早朝補習。金曜日に大移動の出張があるので,授業の振替でぎっしり詰まった時間割。放課後補習もあるので,0・1・2・3・4・7・8の7時間授業。特に午前中の連続5時間は久しぶりの体験。
 放課後補習の後,放送部の昨日の反省と3年生引退式。新部長等の役員の発表もあった。3年生の一言の場面では涙もあった。最後に記念撮影とスナップ。早速スナップを元に放送室のパソコンとプリンターでプリクラシールプリント。3年生は明日から受験生の生活に入ることになる。一挙に10人以上が抜けるので,部員数は19人。1年生の再募集に望みをかけたいところ。アナウンス・朗読班全員参加のドラマ,コンテストではあと一歩の成績だったけれど,最初で最後の1本。いい記念になった。全員にDVDを贈ろうと思う。
 19時30分帰宅。久しぶりに早く帰ってきたので,パソコン内のTV録画の整理。「プロジェクトX」昨年12月からの分をDVDに落としていく。1枚に3話入るので,どんどん入れていく。

 「スタンプマガジン」誌到着。「チェスラフ・スラニア」特集は読み入ってしまった。「郵趣ウィークリー」到着。

2005年6月19日(日)
ストックブック

 7時島原駅発運転手付マイクロバスで長崎へ。いよいよNHK杯放送コンテスト当日である。日曜の早朝は空いているので8時半過ぎにはNHK長崎放送局へ到着。8時50分には審査員打ち合わせ。私は番組の審査。3Fスタジオで開会式の後,1Fスタジオで早速審査。TVドキュメント18本。1本あたり8分なので,テープの入れ替えをしていると約2時間半から3時間かかる計算。12時40分頃終了し,5階の本部で昼食の時間。入れ替わりにアナウンス・朗読予選の審査を終えた先生方がTVドラマを審査。その間に我々は食事である。早めに済ませ,午後のラジオ番組の審査はTVドラマ終了後スタートなのでTVドラマ6本×8分で50分は大丈夫と時間を値踏みして1本目の審査の途中で,長崎中央郵便局4F会議室へ。13時から長崎郵趣会の例会である。まず手短に昨日の「九州郵趣家のつどい」の報告をする。いよいよ来年は長崎であるというので来月にでも動きださなければならないことなどを確認した。佐世保郵趣会からの参加の方が見えられリーフを拝見。30分過ぎNHKに帰ると丁度ドラマの最後から二つ目。5F本部に戻り,くつろぐ。TVドラマ審査員団が本部に上がるのと入れ替わりに1Fに降り,午後のラジオ番組の審査。ラジオドキュメント7本の後,休憩をはさんでラジオドラマ7本,16時半頃終了。疲れた。本校の結果は,アナウンス部門決勝2名進出。決勝で11位と14位。朗読予選落ち。10位まで入賞で6位までNHKホールでの全国大会出場。あと1歩というところ。閉会式の後,マイクロバスに乗って帰途についたのは17時過ぎ。帰宅19時。

 久しぶりに早く帰れたので,切手の整理。ストックブックを久しぶりに開いてみた。富士鹿・風景・新版田沢あたり。リーフの整理はいつになることか。

2005年6月18日(土)
隼人

 なかなか出発のタイミングがうまくいかず,結局10時30分の多比良港発の有明フェリーに乗る。多比良までタクシー1400円ほど。長洲港から長洲駅まで720円。行きが長洲駅から隼人駅まで。帰り隼人駅から諫早駅まで。この切符代が2万から少しのおつり。隼人駅からホテル京セラまでのタクシー片道560円の往復。帰りの諫早から自宅まで1万から小銭少々。
 九州郵趣家のつどい国分大会。盛会であった。100名を超す参加者が九州や東京その他から集まったのである。私が参加したのは,受付前の九州郵趣連盟の理事会に参加するためと次回開催県である長崎の案内をするための2点である。講演の前に実行委員長の赤崎氏のはからいで挨拶の機会を得た。
 講演は姫野氏による「郵便に見る15年戦争」である。年季の入ったコレクションをもとにしたものであった。その後1階ロビーで集合写真。昨年佐賀では即売に心を奪われ写り損ねたので,今年はしっかり写った。懇親会18時からだが食事できたのは40分後。19時5分に会場を出て,隼人駅から諫早までの最終便19時26分鹿児島中央行きに乗った。この車内でヤフオクの気になる3点をケータイから仮に入札。後は新幹線つばめに乗ってからパソコンにつないでと思っていたら,鹿児島中央駅を出てしばらくはトンネルに次ぐトンネル。新八代でリレーつばめに乗り換えてからはケータイとパソコンをつないでやっと安定してネット接続できた。お目当ての品は既に終了していて2勝1敗。でも19年来の懸念が一気に埋まった。それにしても九州新幹線に1日で往復することになろうとは,また,こんな形で九州新幹線初乗りになろうとは思わなかった。
 会場では長年お会いしていない方々と交流できたのが一番の収穫。昭和の贈呈シートの情報も某氏から。心残りは切手が買えなかったこと。
 ヤフオクが一段落してからDVD録画の「赤い疑惑」2時間を見終えたところで諫早着。
 帰宅24時30分。明日は7時出発である。77000アクセス。

2005年6月17日(金)
ヒンジ

 空き時間に,NHK杯放送コンテストの出品作品をDVD化する。8分の作品3本なので400M足らず。miniDVDとしてCD−Rに焼き付ける。放課後,アナウンス・朗読部門出場者の読みの指導。一人でも多く予選を通過して決勝にいってほしい。
 さて,DVD化して画像を詳細にチェックしてみるといくつかのつなぎミス発見。部員と放課後なんとかしようとしたがすぐにはできない状態。でも案外審査では勢いでスルーするかもしれない。それだけのパワーがある作品。
 18時30分に郵便局に電話して19時過ぎに受け取りに行くとの連絡を入れる。もろもろの郵便物を受け取り,自宅へ帰ると宅急便の不在通知。佐川急便のドライバーと連絡を取り某所で待ち合わせて荷物の受け取り。その後歯科定期検診1週間以上遅れているので,電話確認して出かける。島原を通り越して深江の上田歯科へ。終了後,途中コンビニで買い物をして寄り道したので帰宅は22時前。

 全日展作品「小判切手」到着。メダルの銘も同梱されていたので,授賞式でもらったメダルの下に貼り付ける。リーフをみると,あちこちで単片切手が脱落。ヒンジを明日の九州郵趣家のつどいで購入するとしよう。

2005年6月16日(木)
作品提出

 早朝補習。進研マーク模試が近いため対策を少々。放課後放送部のコンテスト提出書類を確認し,アナウンス・朗読6人分,番組3作品中2作品の原稿を4部コピーし,製本作業。3部提出で1部控。部員総出で行なうとすぐに完了。残るは番組1作品。結局19時過ぎに完成。台本を記入し,編集機からのテープ落としと台本原稿作成は「先生お願い!」と生徒たちは帰ってしまうし,一人でやる作業はなんと時間のかかることか。事前に電話をしていた諫早高校へは20時過ぎに出発。21時過ぎに到着。無事事務の方に預けることが出来た。全てを完了し,諫早のガストで遅い夕食。22時前に出て,23時前に帰宅。

 郵便局には結局受け取りに行けず。全日展作品「小判」との対面はかなわず。

2005年6月15日(水)
全日展作品

 早朝補習。放課後放送部の指導。アナウンス・朗読の生徒の他に作品3本のアドバイス。台本の仕上げ。著作権関係処理,昨日某レコード会社より使用許諾の許可。この後JASRAC日本著作権協会への使用料を払うことになる。台本にもそのコピーを貼付しなければならない。明日原稿と作品締め切り日である。夕方事務局校に私が走ることになるのだろう。生徒3人は保護者に迎えに来てもらう。明日の補習や授業の準備をしていたら,遅くなり23時前帰宅。

 不在配達票。いくつかのうちのひとつは日本郵政公社九州支社から。やっと全日展の作品が返却されてきたのだろうか。明日受け取れるとよいのだが。

2005年6月14日(火)
九州郵趣家のつどい

 1・2の授業のと,事務処理をして,長崎へ出張。県の高等学校教育研究会の事務連絡会である。国語部会事務局長として出席。今年から数学部会事務局長になったH氏は前任校での同僚。最近制作のDVD等を持参する。長崎東高は眺望のいいところ。会後帰校して放送部へ。ビデオ編集の真っ最中。3チーム制作だが,ここに来て編集機材が1台という現実に直面する。昨日3年,今日は別の3年,明日が2年ということで落ち着く。保護者と連絡を取り最後まで残った2名は,帰り道ということもあり,家まで送る。帰宅22時前。

 今日になり,土曜日の授業がなくなったということが判明。当初の予定では午後に2コマ入っていたのだが,午後からは模試が入ってきたのでなくなったのだ。「九州郵趣家のつどい」日帰りで行けるかどうか検討してみよう。ただし翌日日曜はNHK杯放送コンテストで朝7時島原駅発のマイクロバスである。

2005年6月13日(月)
「郵趣研究」誌他

 県一斉模試の返却。放課後に点数入力。放送部の県大会申し込み締切。結局ラジオドキュメントが間に合わず,テレビドラマ2本,テレビドキュメント2本。地区大会優秀賞の6名参加。マイクロバスで行く予定。2年生のビデオ撮影につき合ったり,3年生のビデオ編集につき合ったりで9時過ぎまで。最後まで残った編集機前の3年の生徒4名は,保護者に迎えに来てもらう。22時前帰宅。

 「郵趣研究」+「JPSオークションカタログ」到着。「スタンプシバタオークション」,「郵趣ウィークリー」到着。ひととおり目を通す。

2005年6月12日(日)
雲仙郵便局物語

 午前中出勤し,放送部の生徒にアドバイス。3年生のテレビドラマ一つと2年生のテレビドキュメント,アナウンスの出場者が来ていた。午後洋服の青山で夏用のシャツ・スラックスなど。
 
 2年生のテレビドキュメントは「雲仙郵便局物語」。今年5月で開局100周年の雲仙郵便局の活動に雲仙の風景を配したもの。国立公園70周年やPスタンプの話題もある。インタビューの登場は局長と私。どんな風に構成してくれるか楽しみである。

2005年6月11日(土)
NHK杯

 昨日,長崎から来訪のH塚氏が自宅に宿泊したため,朝食後島鉄時刻表を調べたら,9時54分多比良発の急行が一番近い。9時30分過ぎに車で送る。 
 夕方15時から県一斉模試の採点のため,出勤。17時過ぎH松さんが見えられる。NHK杯の全国審査員もされる長崎放送部のエースである。高校時代も2・3年と続けて全国3位4位入賞された経歴の持ち主。ご主人とは以前勤務校がいっしょだった縁もあり,特別指導して頂くことになった。当初18時の予定が早まり,6人の県大会出場者の指導をして頂く。
 これから1週間で自分のものに出来るかが課題である。
 採点集計も終わり,21時前に帰宅。


 慌ただしい日々である。明日も出勤。

 76000アクセス。

2005年6月10日(金)
SEVEN

 早朝補習。出張の先生が多い日。私も本校で県国語部会の理事・役員会。17時30分から懇親会。「ほうじゅう」は昨年と同じ会場である。鯉の泳ぐまちの近くにあり,ふんだんな湧き水が店内を流れる風情のあるつくり。創作料理は,趣向を凝らしたもの。10人前後のグループにはちょうどいい。3次会「六本木」をあとにして帰宅したのは25時。

 「SEVEN」到着。小屋さんの記念リーフ丁寧にまとめられたもの。

2005年6月9日(木)
切手文化博物館

 早朝補習。放課後放送部の指導。今度の土日がヤマであろう。いよいよNHK杯放送コンテスト長崎県大会。月曜には申し込み締切り,木曜原稿締切り,日曜当日というスケジュール。
 長崎ゆめ総体男子バレーボール競技の記録DVD・CD−ROM2枚組パッケージ取りあえず100枚到着。残り900枚は月曜到着らしい。やっと出来た。2年越しの完成である。20時30分帰宅。
 
 「たんぶるぽすと」到着。有馬温泉の切手文化博物館はぜひ訪れてみたいものだ。今回の特別展には行けそうもないが。

2005年6月8日(水)
九州郵趣

 早朝補習はないが,7時にでかける。机上に処理すべき書類があるからである。放課後放送部。ビデオ作品の著作権処理。部活動が終わり生徒が帰ってから,国語部会の仕事など。20時帰宅。

 「九州郵趣」,6月2日消印の封筒なので,3日か4日には到着していたのだろう。西南戦争関係カバーの記事あり。

2005年6月7日(火)
勅額10銭

 高総体の代休日であるが,中地区放送部の強化練習会。中地区から県大会出場選手を自分の学校だけでなく指導していこうというもの。午前中アナウンス,午後朗読。8時に島原駅にアナウンスの3人を連れて行く。9時半諫早の高城会館着。12時までの予定が30分ほどずれ込む。昼食。本校のアナウンスの3人は島鉄で帰り,朗読の3人が島鉄でやってきた。13時から朗読の指導。16時過ぎまで。終了後朗読の3人を島原駅まで送る。引率旅費は出ないので6人とも各自片道負担ということになる。私も完全にボランティアである。山口耳鼻科に行き帰宅したのは18時過ぎ。

 ジャパンの落札物をじっくり見るひまもない。勅額10銭の版別が「昭和切手研究」でなされているが,目下その4つの版をリーフ上でどう表現するか思案中。

2005年6月6日(月)
高総体4日目

 今日で,佐世保行き3日目である。7時出発。途中大村サービスエリアでの休憩をしないでノンストップで走ったお陰で,20分ほど早く到着。佐世保実業高校の剣道会場である。今日から決勝リーグ。丁度本校の女子の試合。第1試合は対西陵戦。長崎新聞の今日の見所でも書かれていたようにこれで勝った方が優勝へ大きく前進する大事な1戦。結果は惜敗。2連覇ならず。この後の展開は予想通り西陵優勝。男子も準準決勝,準決勝と勝ち進みいよいよ決勝。先鋒・次峰・中堅・副将で1勝2敗1分。最後の大将戦で1本先取されたもののすぐに1本取り決勝戦にふさわしい白熱した試合。最後にほんの一瞬,この一瞬で決まった。西陵が優勝である。3連覇ならず。三浦主将が故障欠場したのはやはり大きなハンデである。帰りは新聞部の生徒1名も乗せて帰宅。19時前に帰校。機材の手入れをし,明日の放送部強化練習会の連絡をする。20時前に帰宅。

 ようやく切手のことを考える余裕が出てきたが,郵趣関係サイトをひととおり巡回するのみ。

 75000アクセス。明日も1日外出である。休む間がない。

2005年6月5日(日)
高総体3日目

 佐世保行き2日目。7時出発。10時佐世保着。テニスの撮影に1人置いて,剣道の撮影に行く。男女ともに勝つ。特に男子は圧勝。早めに帰り明日に備えるが,長崎会場のバレー女子が勝ち残って,この撮影班が撮影に行きたいという。日程調整のため帰校。関係の先生の調整をし,無事解決。20時前に帰宅。

 疲れて練る。

2005年6月4日(土)
高総体2日目

 朝7時に出て佐世保へ。10時にはバスケットボール女子の会場九州文化学院へ。1名置いていく。男子は西海学園。2名置いて,私はテニス男女の相浦テニスコートへ。同時に試合。第2試合も取材。バスケット男子の試合が終了したのは18時前。21時過ぎ帰宅。

 「日フィラ」オークション誌到着。

2005年6月3日(金)
ジャパン落札品

 未明に有感地震。また福岡かと思ってネットで調べると,4時過ぎに今度は,天草であったらしい。震度4。
 午前中授業。午後は高総体総合開会式出席者はバス2台で。私も放送部取材で生徒3名と行く。1年生は,島原鉄道の特別列車で応援。残りの2・3年生は課題による学習。
 11時に食事をし,12時文化会館前発。慌ただしい。諫早の総合運動公園の現地に着きカメラ設置のロケーション。スタンドはNHK長崎放送局のカメラのすぐ横に1台。フィールドにもう1台。サブとして私が1台。途中,先日放送コンテストのあったウエスレアン大学にカメラX100のバッテリー・充電器を受け取りにタクシーで往復。忘れ物である。これがないとX100の2台態勢が出来ないのである。
 15時過ぎから開始,アトラクション。その後入場行進。島高は実に堂々としたものであった。4本の優勝旗を捧げ持っての行進は特に目を引いた。2本や3本はあるが,4本はさすがにない。入場した選手は4760人。スタンド応援を含めて12000人が諫早の運動公園に集まったとのこと。
 17時過ぎに帰途。途中バスの中の私の携帯に放送部の部長から電話。カメラはバッテリーを充電するために机上いっぱいに広げていたのですぐわかったらしいが三脚がないとのこと。車から搬出する暇がなかったので車に積んだまま。車の鍵の在処を教え搬出依頼。自宅から歴代のDVカメラ4台と三脚数台を持ってきていたのである。Hi8機2台も使うことになりそう。帰校したのが18時30分過ぎ。
 到着してみると部長を中心に見事に分配完了していた。頼りになる部員たちである。1台カメラの調子がおかしく修理を試みる。1人を途中まで送り20時過ぎに帰宅。


 ようやくジャパンの落札品を手に出来た。落札品の山を,1次昭和・2次昭和・3次昭和,肥前國和文印・長崎欧文印,富士鹿風景,新版田沢と最近整理中のジャンルごとに分ける。ロットものを見るのは後回しである。

2005年6月2日(木)
農産物種子

 高総体前で取材の準備。30人近くの動向を把握しなければならない。私は3日間佐世保市内に往復である。放課後,放送部用のIDカードを作るため市内の百均をいくつかまわる。19時過ぎに生徒を帰してから,パーソナル編集長で放送部取材用のIDカードを作成し,カラーレーザープリンタで出力。帰宅21時前。

 「タカハシスタンプオークション」誌到着。乃木2銭農産物種子重量便はいいもの。

2005年6月1日(水)
高総体

 高総体前で,なにかと慌ただしい。放課後,放送部へ。コンテスト関係のアドバイス。高総体取材の計画。全ての部を割り振る。約30人を8チームに分け,計画を作る。バスの乗車について放送部員を集めて会議室で説明する。19時過ぎまで5・6人の生徒が残るが,塾にそのまま行く生徒2・3人。後は保護者に迎えに来てもらう。20時前帰宅。

 しばらく切手のことまで出来そうにない。

  2005年6月


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